膳所藩の別邸「臨江庵」、そのあとは料亭「臨湖庵」があった。雰囲気も味も大変良かった臨湖庵が惜しまれつつ店を閉じ、直方体のマンションに建て替わったのは2008年だった。あの味は山重(山形屋重右衛門)で今も味わえるらしい。「永享年間(1429〜1441年)の山岡資広(すけひろ)から始まり代々山岡氏が城主で、織田信長政権下の山岡景隆は、瀬田橋を守る城主として活躍、織田信長からの信頼が厚く織田信長は上洛の...
瀬田唐橋東詰を通称「夕照の道」に沿って黒津方面に200mほど、左側に石碑が現れます。瀬田城自体は15世紀に甲賀の山岡氏が築いた城、ということですが、そのご膳所藩の別邸(臨江庵)となり、料亭(臨湖庵)となり、マンション(グランスイート臨湖庵)となって現在に至ります。石碑は山岡氏の末裔が40年ほど前に建てたもののようで、マンション敷地とは柵で隔てられています。
城跡といっても城の面影は何にもなくデッカイ石と石標が唐橋東詰を南へ行く道路の東側に建っています。 東海道五十三次でも歴史的に有名な唐橋ですがこの付近は京へ入る重要な拠点だったのでしょう。その役割を担っていたと思います。
唐橋東詰めから3~4分の所に有ります。現在は石碑と説明板のみがその遺構を示しています。ここに城が有れば唐橋の監視にもなり、大きな防御地点になりそうですね。余談ですが歩道も狭く、またここに立っていると地形が少し膨らんだ先に有るので車から見ると突然人が立っていたと感じるかも知れない場所、車に注意だけはしてください。
唐橋東詰交差点から約200mの瀬田川上流この碑はある。城趾と思われる地には、マンションが建ちその傍らに小さな小さな石碑がぽつんとあるだけ。歴史を調べれば、壬申の乱以来源平の戦いなどで重要な地点として瀬田川畔に戦国時代に瀬田城を築いたのは甲賀武士の流れをくむ佐々木氏家臣の山岡景房である。
惜しまれつつ四角いマンションに建て替わった臨湖庵は瀬田城跡
膳所藩の別邸「臨江庵」、そのあとは料亭「臨湖庵」があった。雰囲気も味も大変良かった臨湖庵が惜しまれつつ店を閉じ、直方体のマンションに建て替わったのは2008年だった。あの味は山重(山形屋重右衛門)で今も味わえるらしい。「永享年間(1429〜1441年)の山岡資広(すけひろ)から始まり代々山岡氏が城主で、織田信長政権下の山岡景隆は、瀬田橋を守る城主として活躍、織田信長からの信頼が厚く織田信長は上洛の...
路傍の石碑
瀬田唐橋東詰を通称「夕照の道」に沿って黒津方面に200mほど、左側に石碑が現れます。瀬田城自体は15世紀に甲賀の山岡氏が築いた城、ということですが、そのご膳所藩の別邸(臨江庵)となり、料亭(臨湖庵)となり、マンション(グランスイート臨湖庵)となって現在に至ります。石碑は山岡氏の末裔が40年ほど前に建てたもののようで、マンション敷地とは柵で隔てられています。
ちょっとそこまで、瀬田城跡 ヘ !
城跡といっても城の面影は何にもなくデッカイ石と石標が唐橋東詰を南へ行く道路の東側に建っています。 東海道五十三次でも歴史的に有名な唐橋ですがこの付近は京へ入る重要な拠点だったのでしょう。その役割を担っていたと思います。
石碑と説明板が有るのみです。
唐橋東詰めから3~4分の所に有ります。現在は石碑と説明板のみがその遺構を示しています。ここに城が有れば唐橋の監視にもなり、大きな防御地点になりそうですね。余談ですが歩道も狭く、またここに立っていると地形が少し膨らんだ先に有るので車から見ると突然人が立っていたと感じるかも知れない場所、車に注意だけはしてください。
城趾と思われる地には、マンションが建ち
唐橋東詰交差点から約200mの瀬田川上流この碑はある。城趾と思われる地には、マンションが建ちその傍らに小さな小さな石碑がぽつんとあるだけ。歴史を調べれば、壬申の乱以来源平の戦いなどで重要な地点として瀬田川畔に戦国時代に瀬田城を築いたのは甲賀武士の流れをくむ佐々木氏家臣の山岡景房である。